(4年生の5月頃に執筆)
・論説 「学問 と *** - その両方をかっこに入れたお話 -」 *** 91号,pp.8-9, 1968.5.
テキスト抜粋
<上記の写真部分>
最近,xxで大学問題がよく話題になるので,そのことも少し話したい.
今日の大学問題はほとんど学問をする場の環境についてである.学問の場としての大学がいかにそれにふさわしくなっているかが問題なのである.大学の自治は常にその点で語られるし,またマスプロ教育,授業料闘争,カリキュラム問題,教師と学生との対話欠如なども然りである.そこでは学問そのものは神聖視され,抽象化されてしまっている.「学問とは何か」という問は忘れられているのである.
もし,我々が本当に学問が価値あるもの,人間に欠くことのできないものであるということを
実感として認識する
ならば,そのときはじめて大学問題は我々自身の切実な問題となり,それに主体的にかかわらずにはいられなくなるのではなかろうか.我々が「学問とは何か」を問うこともなく,大学問題について考えることは,やはり単なる頭の体操としか言えないのではないか.そしてxxはそのために運動場を提供しつつあるのではなかろうか.
さて,本題に入って,私の専攻(電子工学)に関係して最近考えていることを話したい.それは技術が人間にどんな意味をもっているかということである.技術は工学的には可能性の創造であると言えるだろう.技術の進歩は人間の持つ可能性の増大を意味する.しかし,可能性が現実性へと変わったとき,その結果は必ずしも人間に利益をもたらさない.極端な例を挙げれば,原爆の完成は,その莫大な破壊力を人間のものにしたことで大きな可能性をつくったと言えるが,それは核兵器にもなれば,第2パナマ運河の建設に使えるかもしれないのである.今日,技術の進歩は,公害,労働者の自己疎外,合理化による人員整理(配置転換,労働強化),交通戦争など,多くの社会問題を生みだしており,その点で技術は必ずしも人間のためのものとは言いがたいが,それらは多くの場合,社会への適用の段階における問題であり,端的に言えば,経済性を無視すれば公害などはすぐに姿を消すように思われる.だから,問題なのは技術そのものではなく,技術が資本の論理と密接に結びついていることなのである.しかし,それとは別に,私が最も不安に感じるのは技術が本質的にもつ問題であり,それは,近代科学の合理性を絶対とする技術主義,合理性崇拝が,自然科学の領域を超えて,社会を合理化し,人間を合理化しつつあるということである.そこでは,人間のもつ本来的な非合理性(人間性)が無視されており,また人々は自らそういう社会に適応していっているように思われる.私は,この状態,すなわち非合理性が合理性と衝突することなく自殺行為をしつつあることを恐れる.(例えば人間の平均化の問題)
ここで,「技術とは何か」という問は「人間にとって技術とは何か」を経て,「人間とは何か」という問になる.私は今までxxをかっこに入れて,学問についてだけ話してきたが,ここまでくると,もはやそれが意味をもたなくなったのである.しかし,だからといってxxの括弧をとることもできず,結局,皮肉にも
<以下,省略>
【2017.8.30 記載】
上記の文中に「原爆の完成は,その莫大な破壊力を・・・第2パナマ運河の建設に使えるかもしれない」という不適切な表現があるが,本日たまたま下記のTV番組を見て,その背景がわかった.
[ NHK BSプレミアム(Ch.3) フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿「水爆 欲望と裏切りの核融合」 ]
この番組によると,水爆実験に対して世界規模で反対運動がおこったため,その平和的利用を宣伝する目的で,1961年に開始したプラウシェア計画の中に第2パナマ運河の掘削に利用する構想があったが,放射能汚染問題を解決できず、1977年には予算が打ち切られ、実用化はなされなかったらしい.