◆2011年2月2日に発覚した大相撲の八百長に関連しての,昔話:

(私のブログページ(2011.3)から リンク

★小学生時代の,横綱千代の山と横綱鏡里の八百長相撲

検索で,私の記憶と同じサイトを発見:「 昭和ラプソディ(昭和33年1-3月)
「14日目の1月25日には千代の山が鏡里に負けた1番で八百長疑惑が噴出、天竜三郎や神風正一らが「無気力相撲、八百長」と非難している」とある.

この一番をはっきり記憶している.テレビ画面では鏡里が左,千代の山が右で,立ち会いと同時に一度ぶつかった後,一瞬というよりも少し長く不自然に両者が見合った状態が続いた.その後,気を取り直したように鏡里が千代の山にぶつかっていき,そのままずるずると千代の山は後退して簡単に土俵を割った.

★私がはっきり覚えているわけ:

この時,私は千代の山のファンで,優勝の可能性があったので,応援していた.千代の山が負けた後,一緒に見ていた大人は,その場所で引退が決まっていた横綱鏡里に花をもたせた,というようなことを言っていたと思う.そんなものかとも思ったが,この場所は若乃花は鏡里に勝ち,13勝2敗で優勝し,千代の山は鏡里に負けてやって12勝3敗で優勝できなかった.若乃花はずるいと思った記憶がある.

(追記:2017.12)★ 昭和33年初場所のページから、この取り組みは1958.1.25で、小学5年生の3学期とわかる。

★テレビはどこでみていたか:

 当時は私の近所では,酒屋と米屋にテレビがあり,大相撲は米屋に見に行っていた.テレビの近くは近所のおじいさんたちの指定席で,子供はその後ろの立ち見席だった.

★千代の山の印象は:

ツッパリが得意で,「一突き半」で相手を土俵の外に出すので,「一突き半>ひと月半=45日」という表現があったと思う.
 (千代の山)

このツッパリに関しては大関松登との取り組みが記憶に残る.ツッパリで簡単に松登を土俵際に追い詰めた後,千代の山はそのまま松登が土俵を割ると思って,勝ち名乗りを受けるために戻り始めた.ところが松登は土俵を割らず,得意のぶちかましで逆襲した.千代の山は戻りかけたときに館内がどよめいたので後ろを振り返ったが・・・・
(勝負は記憶にないが多分そのまま松登が勝ったと思う)

ラジオで記憶に残る一番は大内山との取り組み.たしか,千秋楽に大内山が千代の山に勝ち,優勝決定戦で千代の山が大内山に勝ったと思う.いずれの相撲も館内の歓声がすごく,ラジオのアナウンサの声がなかなか聞き取りにくくて勝敗がわかるのに少し時間がかかったという記憶がある. この一番は,ウィキペディアの「大内山」のページにも掲載されている.
 (大内山)

(追記:2017.12)★ 昭和30年春場所のページから、この取り組みは1955.3.20で、小学2年生の春休みとわかる。

当時,千代の山が出羽海部屋だったので,出羽一門の春日野部屋と小野川部屋の力士も応援していた.土俵入りの型は,栃錦が雲竜型なのに対し,千代の山は不知火型だった.

★地方興行の思い出:

今回の不祥事で,地方興行を中止にしたが,これには疑問.もともと観客は地方興行の時に力士がガチンコ勝負をしているとはおもっていない.たとえば,地元出身の力士がいれば花を持たせるのは当たり前で,勝ち抜き戦などでも勝たせてもらって,それで場内は結構盛り上がっていた.

地方興行は,小学生の時,父親に自転車に乗せてもらって隣町の多度津町へ見に行ったのが最初.このときは横綱吉葉山と大関三根山がいて,吉葉山は土俵入りがきれいという評判だったと思う.その後,地元の丸亀城の城内グランドでも地方興行があり,見に行った覚えがある.昼ごはんのためにいったん会場を出るときに手のひらに赤いスタンプを押された記憶がある.

★昭和38年当時に関脇の若三杉(もと大豪)は幼稚園・小学校・中学校・高校の先輩.